12月1日は映画の日で、1000円で映画が観れる。というわけで、湊かなえの小説が原作の「母性」を観てきた。公開日2022年11月23日(水・祝)。ネタバレ注意。
湊かなえ原作の映画はこの作品以外に「告白」を観たことがある。にわかなのでそれ以外は観てないし原作も読んだことない。「リバース」が面白そうだからいつか読みたいなとは思っている。
あらすじ(公式サイトより)
女子高生が遺体で発見された。その真相は不明。事件はなぜ起きたのか?
普通に見えた日常に、静かに刻み込まれた傷跡。愛せない母と、愛されたい娘。
同じ時・同じ出来事を回想しているはずなのに、ふたりの話は次第に食い違っていく……
母と娘がそれぞれ語るおそるべき「秘密」-
2つの告白で事件は180度逆転し、やがて衝撃の結末へ。
母性に狂わされたのは母か?娘か?
「母的」な母と「娘的」な母
ラストで清佳が以下のようなセリフを言っている。
「女には2種類いる。母と娘だ。」
この物語を端的に象徴したセリフであり、ぐるぐると渦巻いていた私の思考に最後の最後で納得をもたらしてくれた。
女性には母と娘の2種類いる、というのは社会的な側面から見て当然ではあるのだが、ここでは性格という意味での分類だろう。
この物語的には、
・「母」は娘に無償の愛を与え、守っていく人
・「娘」はその愛をまっすぐに受け止め、その愛を返す人
というように描かれている。ルミ子の実母は「母」の性格の持ち主であり、ルミ子自身は娘が生まれてもなお「娘」として生き続けたのである。母でもあるルミ子が、娘としてルミ子の母から愛情を求めたり与えることに固執する異常さは作品を観れば否が応でも分かるところだが、この異常さによって、ルミ子は「娘として生き続ける」という呪いにかかっているのだなと直感するわけである。
この呪いの原因は何なのかについてははっきり明かされないので推察するしかないが、先に紹介したラストの清佳のセリフのように先天的な性格だったのと、娘的な性格に完全に固定させてしまう程にルミ子の母の愛情があまりにも溢れていたことが考えられるかなと。
清佳の妊娠報告によって物語は締めくくられるため、清佳は「母」と「娘」のどちらとしての母親になるかは観客の妄想に委ねられるわけであるが、私は読んでない原作小説では次のような一文で締めくくられるようだ。
古い屋敷の離れに灯りがともっている。ドアの向こうにわたしを待つ母がいる。こんなに幸せなことはない。
「ドアの向こうにわたしを待つ母がいる。こんなに幸せなことはない。」
この部分がとてつもない気味の悪さを出しており、正直に言ってしまうと清佳も「娘として生き続ける」呪いにかかっしまっているのではないかな。
同じく劇中で清佳が言う「母性は初めから備わっているわけではない」というのも、捉えようによっては非常に恐怖をもたらす。表面上は、母性を持った母にまっすぐに育てられても、その娘も母性を持った母になるとは限らないルミ子を表しているように見える。このセリフを「娘としての清佳」ではなく、これから「母になろうとしている清佳」が言っていたとしたら、「私にも母性が無いかもしれない、そんな中で私は母親になります」と言っているようなものである。もちろん客観的な話として母性の有無を言うのは分かるが、まさに母になろうとしている人物が言うのはちょっと話が変わってくるんじゃないか?
ルミ子に「母性」は芽生えたか?
まず結論から言うと、全く芽生えてないと思う。というか、絶対芽生えてない。清佳か首を吊った時に娘の名前を初めて呼ぶので、「ようやく真の母親になれたか…(´;ω;`)」となりそうなものだが、それは全然違うのである。
ルミ子の母が最期に言った「私の代わりに娘を愛して」が、呪いの言葉としてルミ子の根底にある。すなわち、清佳が死ぬことはルミ子の母の遺志を踏みにじることと同義である。そのような事態になりかけて必死にどうにかしようとした結果、久しぶりにポロっと娘の名前が出ただけに過ぎないのである。
ルミ子に母性が芽生えてない理由として、清佳がルミ子に妊娠報告する場面も挙げられる。ルミ子の母の言葉と全く同じ文言でルミ子は清佳に祝福を向ける。同じ文言である時点で、どう考えてもその言葉を言われた時の母親のことを思い浮かべながら話しているし、元気のなさそうな声で祝福されても、清佳ではないどこか別のところに意識を向けているように見えて全然嬉しくない。
その電話を終えた後に、ルミ子がかつての律子の部屋に入っていくのはもはや決定的である。この部屋は律子が家を出ていこうとした際に義母に閉じ込められた「母が子を守るための部屋」、即ち「子供部屋」である。自分は「娘」であることを最後まで意識していたことになる。
前項でも述べたが、こんな母親なのに、なんだかんだ言いつつ最後で清佳はどこか嬉しそうな顔でいるので、やっぱり清佳も何かが狂ってしまっているのだろう。ルミ子、お前のせいだぞ。
「母の証言」と「娘の証言」どちらが正しいのか?
基本的には「娘の証言」が真実であるように思える。しかし、あくまで証言。娘にとってはそれが事実であっても、「母の証言」と同様「娘の証言」も歪んだ認識をしている可能性がある。
これは、これまで述べてきた「清佳も少しおかしいところがある」を踏まえての考えである。どちらの証言も正しくないとなれば、さらに証言が必要になってくる。キャッチコピーにある「物語は[あなたの証言]で完成する」とは、母と娘の証言を補完する第三者のさらなる証言を示しているのではないかと考える。
「娘の証言」も歪んでいる可能性があることを考えると、自殺未遂の件も本当に死にたかったのか?という疑問が湧く。都合よく助かってるし、母を振り向かせるための単なる手段だったのかもしれない。
あと、何に対しての「証言」かについては、序盤の自殺事件ではなく、火事のことだと思われる。火事のことを中心にして、その後のお互いの認識の差に話を広げたってところかな。
その他雑感
・最初の高2女子自殺が清佳じゃないってミスリード面白かった。物語に直接関わるような事件じゃなかったって気づいた時の落胆は少しあったが、ちょっとした叙述トリックを味わえて単純に楽しかった
・終盤でルミ子が初めて娘の名前読んで主要登場人物の名前が判明するの、「明日、君がいない」とか「カラフル」的なものを感じた。
・清佳が首絞められてるシーンで、「バトル・ロワイアル」で首にボウガンの矢刺さって死ぬ女子生徒思い出した。
・ちゃっかり田所哲史の不倫の件が無視されててウケる。まだ不倫続けてるんかな?だとしたら「父とも向き合えるようになった」であまりにも清佳がドライになりすぎるから、やっぱりなんやかんや不倫やめたのかな
・「学生運動の批判の対象は何でもよかった。日米安保条約反対でもベトナム戦争反対でも何でも。ただ内に秘めた漠然とした不満をぶつけたかった」みたいなくだり、つまり学生運動の対象はマクガフィンだったってことじゃん。ただの反抗期で草。学生運動しょーもな。
おわりに
みんながみんな何か性格が決定的に狂ってて、その不協和音で予期せぬ方向に物語が運んでいくのはやはり面白い。物語の構造としてしてどの作品にもそれは備わっているが、それを不穏なものとして描いているものが好みだな。私も何か性格が決定的に狂ってるのかもしれない()
この作品では「母と娘」というテーマでそれをやっているわけだが、私の母親がルミ子だったらしんどすぎて清佳より早く自殺決行しそう。そうじゃない母親に育てられたから比較して言えることではあるので、実際は判断しようがないが。
「告白」観たときも思ったけど、やっぱ湊かなえヤバいですね。オチは捉えようには依るが、普通に性癖に刺さる。他の作品も滅茶苦茶興味湧いてきた。