A boiled egg

ぼちぼちいこか

ガメラ3 感想

 前作のガメラ2に続き、3も観てきた。映画の日(12/1)なので1000円で観れた。

 

 ちょっと考えさせられる要素見つけると、すごく色々考えちゃう質なので、観ながら「人類醜いなあ、社会も醜いなあ、ガメラと怪獣の戦いもなんか醜く思えてくるなあ、なんなら全宇宙の全事象が醜いなあ」みたいな感情が渦巻いていたのはここだけの話。人類は愚か!みたいなシーン観てからずっとこんなんだった。後者に行くほど直感的になんとなくそう感じるだけになるので、理由とかはよく分かんない。

 あと街破壊されるシーンはやっぱ爽快感あって気持ちいい。人がゴミのように吹き飛ばされる所とか観てて良いストレス発散になった(良くない)。

 

 

 さて、今作は「ガメラは本当に人類の味方なのか?」に特にスポットを当てていたように思う。

 このテーマの始まりは、ある女の子の両親がガメラの攻撃に巻き込まれた所からである。ガメラは女の子の大事な家族を奪った、という感情を抱かせ、ガメラにまず小さな不信感を持たせるのである。

 そして、ガメラが渋谷にやってくる場面では、大勢の人がガメラによって建物の下敷きになったり炎の海に灼かれたりといったものを強く表現する。そしてそこに於いて重要なのは、それがやはりガメラが街中で動き回った結果であるという事である。

 一般市民が巻き込まれるというのは前作でも描写されているが、それは敵であるレギオンの行動・攻撃によるものであった。これは、「「悪」にあたるものが人類を苦しめている」、という物語における一種のパターンから来る描写である。怪獣映画でなくとも、パニック映画等で「地球外生命体」や「天災」をその悪の立場に置いて、地球外生命体の攻撃や天災の脅威に巻き込まれる人々の描写は見たことがあるであろう。

 つまり、人々を巻き込んで殺すというのは人類にとって「悪」であり、今作の渋谷の場面は「ガメラはその「悪」の立ち位置なのではないか?」という問いかけの極大値にあたるのではないだろうか。

 

 しかし、ガメラは悪ではなかった。イリスに取り込まれたたった1人の女の子を救い出そうとしたのだから、ただただ人々を巻き込んで敵を倒す事しか考えてない戦闘マシーンでないのは明らかだ。また、渋谷から逃げ遅れた男の子が「ガメラが僕を守ってくれたんだ」みたいなセリフからも、悪ではないという回答への道標として提示されている。ガメラは多くの人を巻き込んでしまったが、それは敵を倒すためには仕方のない事であり、ガメラも心を痛めてるのであろう(最後は完全に私の勝手な妄想だが)。ガメラに家族を奪われ恨んでた女の子もそれに気づいて、考えを改めるところで今作の区切りがついて終わりという感じである。

 というかガメラが人類の敵であるなら、そもそもガメラと敵の怪獣達との戦いの存在理由が分からなくなってしまう。ガメラは、人類を滅亡(つまり敵)させようとしている怪獣に対抗して現れるのであれば、滅亡とは逆の立場を取らなければならないのである。滅亡の逆、存続であり、つまりは味方でなければならない。人類の敵ならば少なくとも怪獣ぶっ殺す必要ないし、なんなら怪獣と一緒に街でどんちゃん騒ぎするまであるかもしれない。

 まあもしかしたら、「敵の敵は味方」みたいな感じで、別に最初から人類とガメラは敵でも味方でもないが、ガメラと敵怪獣が敵対関係なのでパッと見人類の味方に見えなくもないとかかもしれないが。でもガメラは人の手で作られてるから、設定的にそれは穿った見方だとは思う。

 

 

 ひとまず感想はこんなところ。あれで終わりで続きないは流石に生殺しすぎる。イリス死んだにしても、村の祠の言い伝えの結末とかあの後村の生き残りはどう過ごしていったのかとかすごく気になる。

 後日談的にギャオスとガメラの決戦の結末をどっかで監督が喋ったらしいけど、そんなんで済ましていいのかよwww