ヤンジャンの「adabana 徒花」という漫画を読んだ。上中下の全三巻のサスペンスものである。
短編のサスペンスだとかスリラーの漫画だと、他の作品として有名なやつはやはり「ミスミソウ」だろうか。この作品も、ざっくり言えばそんな感じの物語だと思ってもらって大丈夫だ。絵柄とか話の構成上、ミスミソウよりは幾ばくか狂気度は低いけれど。
核心的なネタバレは無いが、一応ネタバレ注意願いたい。
あらすじ
舞台は山形の田舎町で、そこで一人の少女(マコ)がバラバラに殺害される事件が発生する。その後、「自分がその少女を殺した」と自首してきたのは、殺害された少女の親友(ミヅキ)であった。
前半はミヅキの供述による再現VTRのようなものであり、中盤から終盤にかけては、ミヅキの回想という形で、供述とは異なる真実が描かれる。ミヅキの供述に嘘や裏があることは読んでればすぐに分かるし、作中でも「違和感がある」として言及されるのだが、何の嘘をついているのか・なぜ嘘をつくのかが中盤以降明らかされていく、というところがこの作品の味噌である。
この手の作品に慣れ親しんだ人なら、その理由についてはなんとなく察せるのではないかなと思う。私の予想は結構外れてしまったけれども。ミヅキの動機というか、根底にある行動原理以外全部的外れで草。蓋を開けてみれば事件の真相は至極単純な構造になってるので(話自体が短いから複雑にできようもないのだが)、滅茶苦茶難しい話になってるわけではない。
絵柄と物語の内容の落差
短編なので読みやすいことも良かった点だが、絵柄は割と少女漫画的で可愛らしいなという印象だった。少女漫画特有のデカい目、私は結構好きである。極端すぎるのは流石に無理だけど。
可愛い絵柄に反して、内容はサスペンスなので、殺人は勿論のこと、性行為及びその盗撮、強姦やそれに準ずるものがわんさか描写される。可愛い絵柄でなに描いとんねんと思いもするが、むしろこの手の作品は絵柄と内容のギャップを生み出してこそ、サスペンス特有の不安感や絶望感が強調されるのかなとも思ったりする。
救いはないんですか!?
被害者少女の、マコへの救いが無さすぎるのが本当につらいいいぞもっとやれ。どこまでも追い詰められて、ずっとマコを信用して支えてくれていた人も信じられなくなっていく様は、見てるこっちも精神が擦り切れる思いでいっぱいになる。で、最後には死んでしまうのだからやりきれない。
一応、ミヅキが自首して供述して裁判して牢屋入って、出所したその先に救いのようなものはあるのだが、でもやっぱりマコは死んだんだよなあ、ってなってしまうのでやっぱり救いは無いに等しい。ミヅキは救われたと見てもいいかもしれない。
印象に残ったシーンやセリフ
ミヅキとマコがそれぞれの被害者を殺害するシーンが、構図もセリフもそっくりそのまま対比されてるのがゾクッときた。この演出の意味については、実際に読めば一瞬で「あーなるほどね完全に理解した」となるので多くは語らないでおこう。
もう一つ、ミヅキの以下のセリフも印象的だった。
「自殺なんかしたって。加害者に罰はくだらないのに…」
作中でこのセリフが前にも後にも役割を果たしているというのもあるが、現実でもそうではないかと強く感じた。
いじめ等の、明らかに加害者・被害者の対立構造がはっきりしている場合は別だが、一般的には良いとされていることをやり過ぎたがために被害者を追い詰めてしまったり、ただ漠然とした不安に苛まれていたりだとかだと、加害者の輪郭が曖昧になる。その時に、加害者を罰してもいいものか、あるいは加害者の実体がつかめないが故に、罰することができない。
「ならば自殺をせずに、輪郭の曖昧な加害者に立ち向かっていった方がいい」と言うのは簡単であるが、自殺する人間はそういった心すら残っていないのではないかと、私は常々思う。肉体の生命活動を停止させるのは自殺者本人だが、精神の生命力は他殺されている、というのは個人的な解釈ではある。
いずれにおいても、自殺をしたところで、心を殺してきた加害者は罰せられるのか、本人は報われるのか(罰するしないを置いておくとしても)、というのは自殺の死生観をとらえる上で重要なことであると私は思った。
おわりに
「徒花」の意味は、以下のようなものがある(デジタル大辞泉より)
1 咲いても実を結ばずに散る花。転じて、
実 を伴わない物事。むだ花。「徒花 を咲かす」「徒花 に終わる」
2 季節はずれに咲く花。
3 はかなく散る桜花。あだざくら。
「風をだに待つ程もなき―は枝にかかれる春の淡雪」
これを見れば、本編を読んでも読んでなくても「あっ… (察し)」となるだろう。
それではこのへんで。