A boiled egg

ぼちぼちいこか

映画「栗の森のものがたり」感想

 先日の12月1日は「映画の日」で、映画が1000円で観れる。私は毎年、面白そうな映画があれば観るようにしている。今年は「栗の森のものがたり」という映画を観た。

 2019年のスロベニア映画で、日本では2023年10月7日に公開された。

 舞台となるのは、1950年代のイタリアとユーゴスラビアの国境付近の小さな村。そこには豊かな栗の森があった。しかし、第二次世界大戦後の政情不安により、多くの人々は村を離れ、すっかり寂れた場所となっていた。

 栗の木で棺桶を作るのを生業としていた老大工“マリオ”、村から離れ夫の元へ行くことを夢見る栗売りの少女“マルタ”。ある時、マルタが川に栗を流してしまい、マリオがその回収を手伝ったことによって2人は出会う。2人はこれまでの境遇を語り合い、その中でマルタは村から離れる決心をする。出会いによって紡がれる2人の寓話は一体どのようなものなのか......

概ねこのようなストーリーである。

 

 マリオはこの先の人生は長くないことを悟っており、ある一つの心残りはあるが、とにかく陰鬱な雰囲気を醸し出している。一方で、マルタは夫の待つ地を夢見ており、希望に満ちた様子を纏っている。その「明と暗」の対比が、物悲しい調度品や時折挟まれる歌や踊りなどによって、明瞭に浮かび上がっている。

 作中の音楽ではしばしば、不協和音的だったり恐怖的な音楽が流れることがある。これは、2人のいる小さな村が不安定さ、寂しさの中にあり、彼らの生活そのものもまた、そうであるかのような印象づけがなされているように思われる。今の生活が崩れ去るかもしれない緊張感とはまた違う、曖昧な空虚さがこの映画全体に蔓延しているような感覚である。しかし、軽快な音楽が流れる場面もあり、それはこの物語での「明」の部分として、喜劇的な作品でもあることを印象づけている。特にこれはマルタに関わる場面でよく出てくるので、彼女が喜劇側にいることをよく理解させてくれる。

 作中の演出は、空虚の中にある人々の生活や思いを描くことに徹底しており、セリフが多くはない。一切喋らずに終わるシーンもあり、「このシーンの我々の中での意味はあるけど、それは言語化しないよ。勝手に想像していいからね」というのがひしひしと伝わってくる。そういう作品は、いい意味で勝手に、適当に解釈しながら観れるので、嫌いではない。難しく考えすぎながら観るのはあまり好きじゃないので(考察系のSF作品とかは別だが)。

 また、演出として、夢の中であったり回想だと思われるシーンがよく挿入される。現実の出来事の順序も時系列順ではなくかなりバラバラなので、ストーリーの理解にかなり苦しむところもあるが、それがむしろ作品全体に蔓延る曖昧さ、不安定さを浮き彫りにしている。

 海外特有の価値観、習慣によるものと思われる描写は、少し言葉を足して欲しかったかなとは思う。この映画の監督・脚本・編集を手がけたのは、スロベニア出身のグレゴル・ボジッチという方らしい。スロベニアやその周辺地域の死生観が関わっていると思われる展開があるのだが、説明がほとんどなく、全く分からなかった。まあ、その辺の価値観について既に知っている現地の人からすれば、詳しく説明してしまったら興醒めになるはずなので、セリフは必要最小限だったのだろう。日本人とか、価値観をよく知らない人にとっては言葉足らずだなあと感じるだけで、知りたきゃ調べろ、その情報は映画の中で語る必要はない、ということである。

 全体を通して、陰鬱で、しかしその中に一縷の光もあり、そして夢の中にいるような曖昧な構成となっているのが、この映画の特徴と言えよう。人によっては内容がよく分からずに寝てしまう場合もありそうだが、それは「夢の中のような曖昧な作品」という趣旨によく合致した結果とも言える。

 あまり深く考えずに、「寂しい田舎村で2人の空虚な人生があったんだなー」ぐらいの感覚で観るのがちょうどいい。この記事の冒頭にも、各種映画サイトのあらすじにも書かれているが、この物語はとある村で紡がれた小さな寓話、すなわちおとぎ話である。おとぎ話を難しく考えながら観る必要はない。

 暗い話を、なんとなくで観たい人は是非観てみよう。