A boiled egg

ぼちぼちいこか

君と彼女と彼女の恋 感想

  ストーリーは把握している前提で書いてる。当然ネタバレ注意。ドキドキ文芸部のネタバレも含む。最後の選択は美雪を選んでいるのでそこもネタバレ注意。

 

 

 メタフィクションゲーとして気になっていたこの作品をようやくプレイすることができた。とても良いシナリオであった(小並感)。メタフィクションをテーマにしたゲームは、「(精神的にも物理的にも)二度と繰り返せない」とよく言われたり言われなかったりするが、このゲームも例にもれずそのようなゲームであった。物理的な問題は、どんなゲームでも結構簡単に解決できるのだが、精神的に「このゲームは繰り返してはいけない」と思わせるクリア後の余韻は、メタフィクションではよくあり、むしろそれがお約束になっているまである。

 

 

 

 

・このゲームにおける「決して後戻りができない分岐」

 分岐のあるメタフィクションゲームでは、「全ての選択において後戻りができない、だから選択に重大な責任を持て」というような雰囲気を持つことが多い。このゲームもそういった雰囲気は持ち合わせているが、本当に重要な分岐以外はそれなりにやり直せる。美雪に監禁される前だったら、セーブとロードで差分回収とかは結構簡単にできるのではないだろうか。実際にそこまでやり込んではいないから分からないが。この仕様について真面目に考察するのであれば、「些細な出来事程度だったらいくらでもやり直しがきく」というメッセージが込められていると考えられる。

 しかし、決して些細な出来事ではない選択も人生には往々にして存在する。このゲームにおいては、それが「一人の少女に呪いをかけるかどうか」と「真に寄り添える恋人を選ぶ」だったわけである。どちらも一人の人間の今後の生き方を大きく左右する選択であるのだから、然るべき重要性がある。

 人生は選択の連続であり、決して後戻りができなくなる選択が時には現れる。そしてその重要な選択は、このゲームのように分かりやすく提示されるものではない。日々悔いのないように選択をして生きていけ、というメッセージを感じる。適当なことばっかやって留年している私には痛すぎるメッセージだ。

 

 

 

 

・このゲームの「悪者」は誰か

 このゲームは詰まる所、美雪に呪いをかけてしまったがための物語であると言える。では、そのような状況に陥らせた元凶は一体誰なのであろうか?

 素直に物語を読めば、悪いのはアオイを止めない選択をした我々プレイヤーであろう。しかし、そもそも呪いをかけよう、もとい世界をアップデートしようと最初に考えたのは誰であったろうか?そう、カミサマである。カミサマはあくまでアオイをモブと位置づけてゲームに顕現させ、正規ルートの美雪ルートにちゃんと行けるような役者とすることで気を利かせたつもりだったのだろう。しかし、カミサマはアオイを選ぶプレイヤーの存在を考えていなかった。その点で、カミサマは考えが浅はかで、悪者である。

 ただ、この世界はあくまでもゲームである。自由度はほどほどであった方が良い。カミサマ的には、このゲームは、美雪としか結ばれないぐらいが丁度いい自由度なのだろう。それを無理に破ってゲームをしっちゃかめっちゃかにしたのはプレイヤーである。作者の都合も知らずに勝手なことをしたという点では、結局我々プレイヤーも悪者なのであろう。

 見方によって一番の悪者は異なると私は考える。「人の恋愛の自由」で考えればカミサマが悪いし、「これは秩序のあるゲーム」で考えればプレイヤーが悪いことになる。

 

 ちなみに美雪も結構ヤバいことしてるし元から主人公(あるいはプレイヤー)が好きだったことを考慮しても、最大の原因である呪いをかけられた本人であるため、カミサマやプレイヤーと比べると大して悪くないと考えてる。むしろ呪いに自分なりに立ち向かってて偉い!と思うぐらいである(やり方はアレだったけど)。

 

 

 

 

 

・クリア後の余韻

 私が最後の選択で選んだのは美雪である。アオイの存在は消え、美雪と主人公はまっさらな状態で恋人として結ばれる。この関係が、このゲームの正常な状態であろうと私は思う。しかし、ゲームの調整役のアオイ(と言ったらアオイ推しがキレそうだが)の存在は消えている。本来あるべき形だが何かが足りない、そんな気分を私は感じた。決して取り戻せない欠けた存在、その上で彼らの人生がこれからも続くことを想像すると、決して埋めることのできない虚無感をクリア後の余韻として感じる。

 ちなみに実況動画でアオイを選択した結末も軽く見たのだが、アオイの方が精神的にダメージ受けた。アオイにあんなこと言われたら、今後エロゲーやギャルゲープレイするたびに精神的ダメージ受けるだろ。

 

 

 

 

 

 

・ドキドキ文芸部と比較した、メタ演出の違い

 私がこれまでにプレイしたメタフィクションゲーの中で、メタ演出が秀逸だと一番感じたのは「ドキドキ文芸部」である。キャラクターデータの削除を実際にOSを使って行わせることによって、本当にゲームを直接改変している感覚を味わえた。同様な演出で、モニカが我々にデータを見るように指示し、言った通りにデータが改ざんされているのを見て、本当にモニカが意思を持って我々と会話している感覚に陥らせるのも素晴らしい演出であった。モニカが意思を持っているという演出において、非常に効果的だと思ったし、発想がヤバすぎる。

 ととのにおいては、言うても文章が最初から用意されてるしなーと感じながらプレイしていたから、彼女達と直接会話している感を終始薄く感じていた。まあドキ文もそういう感覚があったのは否めないのだが、データ改変の演出のすごさががその感覚を上回っていた。ととのにおいては、直接的な会話感が薄かったが、美雪の性格クイズや最後のキーコードの入力とかは、プレイヤーが自主的に色々しなければならないので、その点ではゲームに直接自身が関わってくる感覚を味わえた。

 演出においては、個人的にはドキ文の方が圧倒的に上だが、ゲームの中の意思を持った人間にそのものについて、あるいはその人間との恋愛についての訴えかけについては、ととのの方が上であった。単純に分量の違いもあるだろうが。

 

 

 

 

 

・おわりに

 ストーリーも良かったが、選択肢の選び方について、よくできたゲームだった。ニトロプラスのゲームはこのゲームとカオスヘッドしか完走してないので、「ニトロプラス神!」とは言えないのが悔しいが、カオスヘッドは神なのでみんなやって。アニメは評判悪いので多分見なくていい(私も見てないので下手なことは言えないが)。