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ぼちぼちいこか

アニメ「アイドルマスター シンデレラガールズ U149」 感想

 2023春アニメの「アイドルマスター シンデレラガールズ U149」を見た。

 

 前にも言ったことがある気がするが、私はアイマスは5年ぐらい前にデレステを少しだけやったことがある程度なので、そこを了承の上でお願いします。一応無印アイマスのアニメは見たことがある。

 

 デレステを一瞬でもやっていた民なので、一応キャラは大体分かった。Pは当然名乗れないが、橘ありすが一番好きかなといった具合。ありすはエロ同人でさんざんお見かけした櫻井桃華の何とも言えない包容力、平たく言えばバブみも好き。正直このアニメを見ようと思ったきっかけが、橘ありすと櫻井桃華である。*1

 

 このアニメには、一人一人の女の子が、無限に広がる将来や夢への希望に向かって、もがきながらも羽ばたく姿が描かれているわけだが、作中でも描写されているように、彼女らは「”大人”になるために、輝くために”子供”として頑張っている」わけではなく、「”大人も子供もない一人の人間”として切磋琢磨している」という点が重要であるのは言わずもがなでもある。”子供”も”大人”と同じように扱われ成長していく、というテーマに関して、個人的には別の穿った視点も話したくはあるのだが、ここでは割愛する。

 

 例えば、櫻井桃華バンジージャンプで「私から目を離さないで」というようなセリフの直後に飛び降りた姿は、誰が見ても印象に残るであろうシーンだ。あんな芸当、大人とか子供とか関係なく、ほとんどの人間はできない。そんな、年齢関係なく難しいことをやってのけた彼女はまさしく、大人と子供の垣根を取り払っていると言えよう。つまり、所謂”子供”である彼女は”大人”という存在と連続的であり、即ち”大人”でもあるということなので、世のキモオタが口にしている「桃華ママ」という概念は存在し得る。証明完了。これでノーベル賞は俺んモンだぜ~!!

 また、橘ありすが、勇気を出して自分の夢を両親に伝えたことも、一人の人間として自身の意志を表明したことで、これまで囚われていた”子供”とか”大人”という概念から解き放たれた出来事として表現されているように思う。ここのシーンは、両親もまた、大人も子供もない一人の人間で、ありすと対等な存在であったというのも印象的である。弱い存在として”子供”のカテゴリに押し込めるのがいけないように、”大人”も万能の存在ではなく、そのカテゴリとしてはめ込むのは正しくない。どうでもいいけど、橘ありすみたいな純粋で素朴な女の子はやっぱりいいよね。曇らせたくなる。あんなことやこんなことや【検閲済】。

 結局、年を重ねることで得るものは「大人であること」ではなく、ちょっとした知識や経験のみであるということである。そういった知識と経験が、疑似的に”大人”の概念として見えてしまう、と私は考えている。

 

 色々書いたが、正直一番言いたいことはこんな難しいことではなく、寸胴の幼児体型たまらんってことだけである。顔とか体の各所が、程よく丸みを感じさせる描き方になってるのも、肉体の幼さがよく表現されてて高評価。OPとかのダンスシーンで特にそれがよく分かる。第二次性徴始まらないでくれ。

 このブログの筆者は早くどうにかした方がいいと思うけど、どうにかするつもりはないらしい。「子供も大人も一人の人間として対等に」なアニメで、幼児に興奮しててても問題ないですよね!

 

 アイマスオタクを名乗るつもりは一生無いが、とりあえず今アニメ化してる分ではデレアニはいつか見とこうかなとは思い続けている。思っているだけ()

*1:後者に関しては正確に言えば、照井春佳の声を聞きたかった